経験する自己と物語る自己

本当の自分は一体どこにあるのだろうかと考えることが以前はよくあった。

 

自分の将来について考えるとき、自分は一体何をすべきかとか、何をしなければならいか、何をしたいのかとか考える。ある程度考えて、自分なりに答えを出したとする。でも次の日なると、その答えはやはり違うのではないかと思い始め、また昨日と同じように考え、また別のある答えに行きつく。けれども別の日になるとその答えを疑ってしまう。そしてまた考え始める。このような堂々巡りになるのは自分とは一体何かと考えてしまうからである。本当の自分とは何かなどと考えるのはやめたほうが良い。そもそも本当の自分など存在しないから考えたところで正しい答えはでてこない。仮に答えが出せたとしてもその答えには何ら根拠がない。自分が見つけ出した本物の自分というものが本物であるというのはどうやって証明できるだろうか。他人に対して証明できる必要はないとしても、今考えている自分に対して、その答えが正しいということをどう証明できるだろうか。できない。なぜなら本物の自分というものは存在しないからだ。

 

経験する自己と、物語る自己というのがあるらしい。よく自分探しの旅などといって放浪旅に出る学生がいるが、それで自分を見つけたとしてもそれはやはり本当の自分ではない。かといって嘘の自分というわけでもない(本物の自分が存在しないのであれば嘘の自分は存存在しない)。自分探しの旅に出て見つけた自分というのは、物語る自己だ。物語る自己というのは、自分について他人に話すときの自己のことだ。人に自分の話をするとき、経験したことすべてを話すことはないし、実際に経験したことのとおりに話すわけでもない。自分が何かを経験しているときに感じていることをそのまま話すこともない。自分の経験について、自分にとって心地の良いかたちで、都合の良いところだけを、都合よく解釈をして、物語をする。その物語っているときの自分がまさに物語る自己だ。一方経験する自己は物事を経験しているその一瞬一瞬の自己ということになる。経験する自己はほとんど記憶しない。ある期間のなかで最も印象的な瞬間と最後の瞬間くらいしか記憶できない。

つまり自分探しの放浪旅にでても、記憶しているのはその旅で最も印象深かったことと、最後の出来事くらいなもので、2番目に印象に残っていることなど記憶に残っていない。そこで見つけた自分というのは、旅のクライマックスと最後の出来事に、自らに都合の良いように合わせて作り上げた自己のことである。

 

旅を楽しむのは良いことだけれども、存在しない"本当の"自分を探すのは時間の無駄だし、精神的に疲弊するためやめておいたほうが良い。

 

ホモ・デウスを読んで思ったこと